昔何かの本で、
「食器は一つ、
いい物を買いなさい。
そうしたらそれが、
あなたの基準になるから」
という一文を、
どこかで読んだことがある。
読んだときは「へー」くらいにしか
思っていなかったのだけれど、
実際に素敵な食器を1年間
使ってみた結果、
ものすごい感性に変化が起きた…
気がしてる。
一年前、私は初めて
”陶器市”という場所に行った。
それは若手からベテランの方まで
幅広い年代の作家さん達が集い、
各々の作品(主に陶器)を
ずらっと並べた大きな市で、
当時は一目ぼれした
カップやお皿を数点、購入した。
(ちなみにアイキャッチ写真は
私が買ったカップではない。笑)
それまで、量産された食器しか
使ったことのなかった私は、
初めて買った
”作家さんの想いがつまった食器”
に毎日、心を奪われた。
お気に入りのカップは
注ぐものによって表情を変え、
手触りはつるつるとなめらか、
両手で包むと安心感があった。
洗うときですら
とても心地が良く、
石鹸でぬるぬるとした
食器を触ったときは、
「きっと作家さんも制作時
こんな手触りを感じていたのだろう」
と、形そのものを味わったり。
それら食器は、「生きている」
という不思議な感じがした。
そうして見て感じて味わって…
1年がたつ頃。
なんだか物への感じ方が変わったなぁ
と思うことが増えてきた。
例えば、以前はなんとも
思わなかったのに、
量産された食器に
トキめくことが無くなってしまった。
可愛いとは思っても、
なんだか手に取ると”寂しさ”を感じる。
また、食器に限らず、
「絵画」や「音楽」についても
同じ感覚がすることが増えた。
なんというか…
人を意識して作った作品か。
それとも、人はお構いなしに、
自分の心を宿して作った作品か。
ということが、なんとなーく
分かるようになった気がする。
「対他」で作られた作品は
いくら綺麗であっても、
手にとってみると空っぽなのだ。
それどころか、ひどいときは
「こうしておけば売れるだろう」
「こういうのが好きなんだろう」
といった思惑とか媚が
透けて見える時すらある(笑)
対して(いい意味で)自分本位に
作られたものは、
遠くからでも何というか
オーラが出てる。
それはその作り手の
「好き」や「愛」といった
プラスのエネルギーだ。
「物や芸術って作り手の
エネルギーが宿り続けるんだ…」
ということを最近、
実感することが多くてビックリしてる。
例えば、
クラシック音楽を聴いている時。
あまりに作曲家が自分の心の内を
さらけ出すものだから、
聞いているこちらが
恥ずかしくなる時があったり(笑)、
先日、見に行ったモネ展
(印象派のクロードモネ)の作品は
一枚一枚に愛が詰め込まれてて
そのパワーに思わず絵画の前で
涙目になった。
百年以上も前の作品にも関わらず、
「この世界が大好き」
「すべてが愛おしい!」
と絵が語りかけてくるほど、
エネルギーの量がとんでもなかった。
…なんて、こんなことを
感じられるようになったのは、
私が毎日、「本物」の陶器に
触れていたおかげだと思う。
(ちなみに以前は
絵やクラシック音楽を聴いても、
「全然分かんネ、ツマンネ」
と思っていたほど
感性の無い人間だった。笑)
「量産」や「偽物」だって、
もちろん存在価値はあるしダメじゃない。
でも、「本物」はもしかしたら
日頃から触れていないと
「何が本物か偽物か」
ということに気づけないのかもと
最近、思う。
ちなみに
「本物とは何か?」と言えば、
人によって答えは
様々だと思うけれど、
あくまでも私は
作者の心の内を作品に込めた何か
だと思ってる。
それは食器に限らず、
音楽や絵画、小説、映画…
物でもそうじゃなくても
なんでも。
そういった「本物」
言い換えると、
「人の魂を宿した作品」
に毎日触れていれば、
きっと他の場所で
「本物」に触れた時、
「これはすごい…」
と心を震わせられるように
なるのかもしれない。
そしてそれはきっと
私たちの人生を
豊かにしてくれるに違いない。
だからみんなも一つ、
高価じゃなくたって良い。
あなたの基準になる「本物」を
日常に取り入れてみては、いかが?
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