「私は無価値」を受け入れて生きることにします

昔何があって自分が
そう思うようになったのか…

明確には分からないのですが、

とにかく私はずぅっと

「自分は無価値」という価値観を抱いて
生きてきたように思います。

そして、いつからか思い始めた
「私は無価値」という思い込みはやがて、

「無価値なんだから、
役に立たなければ愛されない」

というマイルールに飛躍し、

それは何十年も私のお腹の中(無意識)に
居座っていました。





例えば、2度の流産で
心がこんがり燃え尽きた後ですら、

私は自分を休ませることが
出来ませんでした。

なぜなら、

何もしないことや
休むことは私にとって

「愛してもらえない無駄な行動」
と思い込んでいたからです。

私は無価値。だから
役に立たなきゃいけないのに、

休息は何も生産できない。

すると愛されない。

だから、休むなんて、ダメ。

これが、私の無意識でした。





なので、
精神的に苦しい時期ですら

「休むなよ」
「何か役に立つ行動しとけよ」と、

私の無意識は私を駆り立てたのです。

結果、私はくる日もくる日も、
一心不乱に本を読み漁りました。

何もしたくない、出来ない日ですら、

「休んでないよ」
「ちゃんとやることはやってるよ」

と自分に言い聞かせながら、
毎日本を読んでいました。

なにせあの時の私は、

ようやく「母」という役割を
手に入れられるはずだったのです。

そうすれば、
無価値ではなくなる”はず”だった。

のに、ダメだった。
また、ただの無価値に戻った。

だから、止まって休むなんて、
とんでもない。

私は無価値。

そんなことわざわざ言われなくなって、
誰よりも自分が知っている。

私は、無価値。

でも、

愛されたい。

たくさんの人から、
愛されたい。

だから私は止まれない。

止まるとどこかに沈み込みそうで
怖かったのです。





そんな風に、無価値なのに
それでも認められたいし、愛されたい。

と願うから、
私の行動には一貫性がありませんでした。

例えば昔、

新卒で勤めた銀行では
何がどうなったのか…

「この子は期待の新人」

というレッテルを、
私はぺたりと貼られました。

それは、

「もっとみんな私を見て欲しい!」
という私の願いや努力が

引き寄せた結果に違いありませんし、

会社で期待してもらえることは、
とても喜ばしいことなのかもしれません。

けれども、

私は自分が期待の新人なのだ。
と自覚した瞬間、

恐怖で身体が粟立ちました。

「期待してもらっている。」

でも、

「私は必ずそれを裏切ることになる。」

「期待したほどじゃなかった。と、
言われる未来がすぐそこに、ある。」

きっと当時はここまで明確に
自覚は出来ていなかったと思います。

でも、お腹の中ではそんな風に思っている。

だから、
月末にはノルマが達成できるかどうか、
毎回恐怖で足が竦みました。

きっと今日こそ、
ボロが出るに違いない。

ノルマ達成できたのはただの運で、
今月はきっと達成できないに違いない。

するとついに、無価値が証明される。

ずっと隠していた私の無価値が
みんなに、露(あら)わになる。

嫌だ。怖い。逃げたい。





無価値だから役に立って愛されたい。

それは分かる。

なのに、
役に立って人から注目を浴びると、

それが願望だったくせに
気持ちよくなれない。

何故なら、
一度その向けられた目が、

がっかりしてどこか違うところに
向いてしまうのが

怖くてたまらなかったから。

結果、私はたった1年ちょっとで
銀行を去りました。

ボロを出して期待通りじゃなかった。
と言われる前に、逃げたのです。

だって、

「期待通りじゃなかった」
と言われてしまうよりも、

「期待してたけどあの子から
去ってしまった」

と思われる方が、
自分で自分を守れたから。





YouTubeだってそうでした。

登録者数が膨れ上がったとき
私に向けられた
「期待」や「関心の目」が、

離れていくことが
いつもいつも恐ろしかったです。

減るのが怖いから、
最初から注目されたくない。

だから、全盛期なんかは

「もう誰も見ないで欲しい」
と願いながら動画を公開していました。

なのに、本当に再生回数が少ないと
それはそれで心底ガッカリしたし、

反対に、
予想より多いと恐ろしくなった。

訳が分からないでしょう。

私も、自分でも何がしたいのか。
何が望みなのか。

訳が分かりませんでした。

これが、今までの私。

無価値なのに、

役に立とうとしてもがき、
そして、

役に立てない自分に怯えていた私。





そんな中、つい先日。

コーチングしてもらっている中で、

「1週間、全力で無価値を感じて」
という宿題が私に出されました。

何かを選択するとき、

私は無価値。
何かをやってもやらなくても無価値。

じゃあ、どうする?

と、立ち止まって考えることが
この課題の目的なのだそうで。

聞いたときは、
「なんじゃそりゃー」
とハハハと笑っていましたが、

Zoomを切って、

「私は無価値…」と呟くと、
不思議と胸が躍りました。

なんでだろう?
発言と心が一致しているから?

一般的には
悲しい言葉なのかもしれない。

なのに、なんだか自分で自分を
受け入れてる感じがして、

心地よかったのです。





それから翌日も、
ずぅっと自分にすり込んでいました。

「無価値だよ」
「私は無価値だよ」

そう考えていると、たまに

「ひどい!なんてこと言うの!」
と、怒る自分も出てきました。

嬉しくなったり、怒ったり、
悲しくなったり、喜んだり。

「無価値だよ」に対して、
いろんな感情が湧きあがったけど、

どうにか無価値を
受け入れようとしていると、

あることに気づきました。

それは、いかに自分がこれまで

「役に立つかどうか」
で物事を判断していたかということ。

自覚してみると笑ってしまうほど、
私の物事の基準はすべてそうでした。

モノ、時間、人。

全部「役に立つか?立たないか?」で
取捨選択してた。

例えば、

私が何か「やりたい!」と
直感的に思ったことも、

やるに値する、
まっとうな理由が無ければ
自分にGOが出せませんでした。

だからやりたいことが、
やれなかった。





でも、

「自分が無価値で、
やること成すことすべて無価値!」

と考えだすと、その効果は凄かった。

無価値でもやりたいという
衝動に突き動かされたもの
が、

私の目の前に並び始めたのです。

人の役に立つ。
という軸ではなく、

ただ

「無価値でもやりたい」
「無価値でも書きたい」
「無価値でも話したい」

と思えたものが、
たった数日の中でもいくつか見つかった。

そして、出来た!

これは、今までの私からすると、
とんでもない変化。





こんな感じで今、私は

「無価値」
「でもそれでいい」

をゆっくりと感じ始めています。

そして、いつか意識しなくても
心からそう思えた時…

私はどうなるんだろう。

その時もまだ、
愛されたいと願っているのでしょうか。

それとも、

その時はそんな願いすら、
どこかに吹き飛んでしまうのでしょうか?

分からないけれど、
一つ言えるのは、

「やりたいことをして生きる」
という願望に、

とても近づいている感覚が
あるということ。

そして、自分の未来がなんだか
おぼろげながらも見え始めている、

ということも…。

このまま進むと沢山得る反面、
いろんなものも失いそうで、

怖い気持ちもあるし、
楽しみでもある。

というなんだか複雑な
今日この頃なのでした。

おしまい。

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