唐突だけれど、私の中には、
やりたいことをして生きていきたい
【自由な私】と、
努力しなければ幸せになってはいけない
という価値観を持つ【鬼軍曹】という
2つの私が”常に同時に存在”している。
これは私が特殊なわけではなくて、
皆さんの中でもそういう対立する
自分自身というのは
少なからず存在する、と思う。
かつての私は、
思考や行動といった主導権すべてを
鬼軍曹サイドに握られていた。
【自由な私】はどこかに追いやられて、
影が薄くなっていた。
(というか当時はもはや存在していると
気づきすらしなかった。)
鬼軍曹は、本当に鬼だ。
私が毎日のルーティーン
(トイレやキッチン等の掃除)を
少しでもサボろうとすると、
「クズ!」
と頭の中で私を罵ってきた。
趣味でやってる裁縫にすら、
「こんなのも綺麗に
作れないのかクズ!」
としょっちゅう怒られたし、
日々の食事のカロリーも
制限内に抑えられないと
「食べすぎだろクズ!」
とこれまた私を叱った。
思い出してみると我ながら、
よくこんな厳しい自分とこれまで
一緒に生きてきたなぁと感心する。
ただ、
心理学を学ぶ過程で知ったのは、
鬼軍曹は私を
愛しているということだった。
これらの厳しい制限や罵りなどは、
本気で私を幸せへと
導こうとしていたから、らしい。
鬼軍曹は、基本的にいつも
- 努力すること
- 人の役に立つこと
- 完璧でいること
を私に強要する。
なぜなら、
”そうしなければ愛されない”
と本気で考えているからだ。
だから、
私が人から愛されるようにするため、
これらを私に課していた…らしい。
とはいえ、その重すぎる愛に
私は潰れかけていた。
毎日の制限、ルールに
人生がつまらなくなって、
苦しかった。
そこで、ゲシュタルト療法の
エンプティチェアというセラピーを使って、
【鬼軍曹】から【自由な私】へと、
人生の主導権を移動させる
お願いをしてみた。
このセラピーについて詳しくは書かない。
とりあえず、
「もう自由に生きたいです」
「厳しいルールはもう嫌です」
と私は必至で
鬼軍曹に伝えたのだった。
そうして30分以上かけて説得し続けた結果、
ようやく鬼軍曹は折れた。
「ちゃんとゆみのこと守ってあげてよ!」
と泣きながら鬼軍曹は
ベンチへ移動した(笑)
はずだった。
いや、確かにその日、
鬼軍曹は移動した。
なにせその日から、
カロリーを大きく超えて食べても、
どこからも「クズ!」
という声は聞こえなくなったし、
(その結果私は一瞬で3キロ太った。笑)
家事もサボり放題になった。
トイレを何日間も掃除しなくなって、
初めて家のトイレで黄ばみを見つけた時は、
そこまで放置出来た自分に
なぜか少し嬉しくなったりもした(笑)
…しかし、鬼軍曹は移動しただけで
消えてはいないのだ。
というか、鬼軍曹は”私自身”だから、
消えることは無い。
そして私を愛している。
だからこそ、
心配で心配でたまらないのか、
すぐ前に出てこようとしてしまう(笑)
その結果、
私は再び不調になってしまった。
以前、夫婦でやっていたYouTubeを
私は、一人でやると公言した。
そして同時に、日常動画ではなく
語り口調の動画をつくってみた。
これは【自由な私】が
主導権を握ったから出来たことだった。
ただ、正直に言うと…
最近の動画はあまりに
再生回数が伸びなくて、
私は落ち込んでいた(笑)
「でも!
それでも、やればいい。」
「無価値の自分を受け入れて、
自由気ままに生きればいい!」
自由な私はそう考えた。
ただ、それを
許さない自分もまた、いた。
そう、鬼軍曹だ(笑)
結果が伴わなかった
【自由な私】の行動を、
鬼軍曹は懐疑的にずっと見ていたのだ。
そして、ある日ふと、
鬼軍曹が再び舵を取り始めた。
鬼軍曹は、
「やっぱり私のチャンネルで
求められているのは、
日常動画なんじゃないの?」
と、私に囁きだした。
「そもそもやりたいこと、
撮りたいことだけ撮ると言ったけどさ」
「そんなことで伸びるほど
YouTubeは甘くないって知ってるでしょ?」
「YouTubeをやるからには、
伸ばさなきゃね。
どんな動画だったら見てもらえるのかな?」
鬼軍曹の意見に私もついつい
考え込んでしまう…。
そうして至った結論は、
「そっか!やっぱり私は、
皆が期待するように
日常を動画にすべきなんだ!」
だった。その瞬間、嬉しそうに
「よーし!じゃあ、そうなるように
ワイが面倒みたる!」
と、鬼軍曹が再びメガホンを持ったのだった。
主導権を握った鬼軍曹は
その日からまた張り切って、
【今、YouTubeを撮れ!】
と、私を四六時中急かした。
例えば先日
私は家の掃除をしたのだが、
その時も真っ先に
「動画を撮りながら掃除したほうが
いいんじゃないの?!」
と騒がれた。
でも、どうしても撮る気が起きなくて、
結局私が動画をまわすことは無かった。
そんな私に対し、鬼軍曹は怒った。
「なんで動画まわしてないんだよ!」
「動画をまわさずに掃除するなんて、
クズだろ!!」
こんな感じで掃除だけでなく、
外食するにしてもお出かけするにしても、
ずっとずっと鬼軍曹が
「なんで撮ってないんだよ!」
と怒りながら、私について回った。
くり返すが、鬼軍曹は、私だ。
意味が分からないと思うが
こんな風に、
ここ最近は私が私を
休ませてくれなかった。
しんどくてたまらなかった。
鬼軍曹に急かされ、
常にあれもこれもと
動画をまわそうとする私に、
夫はいつも
「本当にそれ撮りたいの?」
と聞いてきた。
それを聞かれると、
撮ろうとしていた手が止まった。
そして、
その質問が再び投げかけられたある日、
私はついに大爆発した。
「なんで撮ろうとしてるのに、止めるの!」
「なんで皆私のやりたいこと、止めるの!」
そしたら、
「いや、撮ったらええやん」
「でも、本当に撮りたいなら
もう撮ってるやん」
「なのに撮ってないのは、
自分で止めてるからじゃないの?」
と言い返された。
その瞬間、涙が出た。
なんてひどいこと言うの!
と思いながら、図星だ。とも思った。
同時に、苦しい、と感じた。
何かがもう、苦しかった。
何が苦しいのか自分に聞いてみたら、
自然と言葉が零れ落ちた。
「YouTube、撮りたくない…」
その瞬間、心と発言が
初めて一致した気がした。
そして腑に落ちた。
この一週間の私には、
YouTubeを
撮るべきという鬼軍曹と、
YouTubeを今は
撮りたくないという自由な私が、
自分の中で同時に存在していたのだ。
別に鬼軍曹は悪くない。
私を守ろうとしただけだ。
問題だったのは、
自由な私を居ないものとして
振舞っていた事だった。
「YouTube撮りたくない」
なんて発言することや考えることを、
許さない自分がいたこと。
それが問題だった。
自由な私はずっとそこにいたし、
「やりたくないやりたくない」
と声をあげていたのに、
私が全く見てあげようとしなかった。
でも頭の中では鬼軍曹と自由な私は
常に衝突し合っていた。
そりゃあ、しんどくもなるだろうよ。
と今は思う。
「撮るべきと思う自分と、
撮りたくないと思う自分がいる」
これを自分で把握するだけで、
恐ろしいほど気持ちが落ち着いた。
楽になる方法は、
撮りたくない気持ちをただ、
認めてあげただけだった。
私の中には常にいろんな私がいる。
「落ち込んだ気分になってはいけない」
と思う自分もいるし、
「人間だもの、落ち込むわよ」
と思う自分もいる。
「休んではいけない」
と思う自分もいるし、
「今は休みたい」
と思う自分もいる。
「無価値で良い」
と願う自分もいるし、
「無価値だとやっぱり愛されない」
と思う自分もいる。
そして大方
モヤモヤしているときは、
その片方の自分の存在を
自分で消しているからかもしれないな
なんてふと思った今日この頃だった。
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